ゼロからのアメリカ移住 ー 全てを失くして這い上がった男の「サバイブ論」
人種のるつぼと言われるアメリカには、その多様性を促進するシステムがある。その一つが永住権(グリーンカード)の抽選プログラムだ。
アメリカンドリームを夢見て、毎年相当数の人が応募しているが、10年応募しても当たらないということもザラである。
そんな中、2001年NYで起きた9.11同時多発テロ後に応募し、一発でグリーンカードを手にし、英語力ゼロ・人脈ゼロという何もない状態から這い上がった男がいる。
『Fujisoft America』でCOO兼CFOを務める中島恒久さんだ。今日は中島さんに、現在の仕事のみならず、「ゼロからアメリカで這い上がる方法」についてお伺いした。

中島 恒久 (Nakajima Tsunehisa)
1978年静岡生まれ。グリーンカード (永住権) 抽選プログラムで当選し、2004年に渡米。寿司屋の下働き、起業、大学発のスタートアップ、刃物の研ぎ師、旅行会社の営業職、食品卸会社のマネージャーなど多彩なキャリアを経て、2015年Fujisoft Americaにジョイン。2017年11月より、COO兼CFOを務める。プロミュージシャンとしてジャズベースの演奏をライフワークとしている。
エンジニアリング以外全てが仕事

編集部:さっそくですが、現在はどんなことをされているんですか?
中島さん:Fujisoft Americaは、親会社の富士ソフトが2015年にシリコンバレーに作った会社なのですが、こちらでは主に通信デバイスの評価業務やソリューション開発業務を行ってます。
また、最近だとこちらのスタートアップのリサーチをしたり、コミュニケーションロボットのアメリカ展開を試みたりもしてますね。
編集部:幅広くやられているんですね。
中島さん:特にソリューション開発業務では、2017年にkintoneさんと正式にセールスパートナー契約を結んで、今ではそれがソリューション部門の一番のコアになっているので、kintoneさんには大感謝です!
編集部:それはどういう経緯でパートナー契約を組むことになったんですか?
中島さん:実は最初は僕個人がkintone USのメンバーと仲良くなり、1ユーザーとしてkintoneを使い始めたんです。その後、kintoneをどんどん好きになり、色々な方に紹介をしていく内にサイボウズの方からアメリカ初のエバンジェリストになりませんか?と声をかけて頂いたんです。
そしてエバンジェリストとしてイベントなどをやっていたんですが、そういった活動をkintone USの山田社長にも認めて頂き、サイボウズの青野社長にお会いする機会も頂き、最終的に会社間の繋がりになったんです。

オフィスに貼られたkintoneのポスター
編集部:すごい!個人の繋がりを会社のソリューション部門に繋げたんですね。
中島さん:また、COO兼CFOとしての普段の業務は、営業、人事、財務、経理、会計などエンジニアリング以外のこと全部ですね。
編集部:エンジニアリング以外のこと全部だと時間的に大変じゃないですか?
中島さん:もう間違いなく大変です(笑) ただ、昔からビジネスの立ち上げや立て直しをやってきているので、そういったオペレーションには慣れてますし、すごくやりがいも感じてます。
編集部:ちなみに、効率的にオペレーションを回すコツはあるんですか?
中島さん:そこは日々試行錯誤してますね。特にうちのような新しい会社では、日々色んなことが変わっていくので、決まった仕事の流れやパターンもないんですよ。なので、今はまさにそこが課題です。
今までは良くも悪くも私一人が全部やっている個人商店のような感じだったのですが、それだと属人的すぎてスケールしないので、今後はチーム力を上げていきたいです。
編集部:チームとしてパフォーマンスを上げていくと。
中島さん:2018年の目標は「親会社に依存せず独立採算がとれるようになる」という少し目先のことだったので、今後は「どのようなミッションのもとビジネスを行っていくのか」という使命感や長期的な目標をチームに共有・浸透して、チーム力を上げていければと思っています。

富士ソフトが開発・市販する会話ロボット(PALRO)
バリューを発揮しCOOに
編集部:ちなみに、元々はCOOではなかったとお聞きしましたが、どのようにCOOになられたのですか?
中島さん:最初はオフィスマネージャーとして入って、気が付いたら上にあがっていた感じです。実は、始めは社内の人にも日系SIerのアメリカでのビジネス展開は懐疑的に思われていたので、結果を出して見返してやろうという思いがありひたすら頑張ったという感じですね。
編集部:具体的にどのようなことを意識したのですか?
中島さん:当時は言うなれば武器も兵糧もお金もない状況でのサバイバルだったんです。なので、まずはシリコンバレーで「武器を持っている人」と接して、なぜこの人は武器を手に入れられたのかを知るところから始めました。
あと、日々の仕事はオフィス周りだけだったので比較的楽だったんですが、それだけに甘んじていると、自分も組織も次のフェーズに行けないと思ったので、朝9時から夜6時まではオフィスの仕事をして、夜6時以降と週末はネットワーキングと営業活動をやったんです。

オフィスが入っている建物の外観
編集部:それがエバンジェリストの活動などですね。
中島さん:そういったことを地道にやっていると、結果的に心意気を感じてくれたお客様やパートナー様が「一緒にやってみよう」と言ってくれるようになったんです。
そして、そのもらったチャンスに最大限の努力で答えて、会社も僕も一緒に少しずつ大きくなっていったんです。そして責任を負う立場の人が必要になったときに声がかかり、2017年11月からCOOになりました。
編集部:できるところから一歩ずつ積み上げていったと。
バンド活動に打ち込んだ学生時代
編集部:過去の話に移りたいのですが、そもそも学生時代はどんな生活を送っていたんですか?
中島さん:高校生の時から音楽でプロになろうと思っていたので、ずっと楽器の練習やライブばかりやってましたね。なので受験勉強もまともにやらず、大学時代もバンド十何個かを掛け持ちしていて、ほとんど学校にも行ってなかったです。
そして色んなジャズのライブを見ている中で、のちに師匠となる水野正敏氏のライブを見て、「この人の弟子になってプロの道に入ろう」と思い、大学を2年で辞めました。
編集部:え、辞めたんですか?
中島さん:辞めて弟子入りしました。学生の中では「うまいね」とか「すごいね」と言われていたんですが、学生の中でうまいだけでもしょうがないと思っていたので…

師匠である水野正敏氏と(2016年東京にて)
幸いにも弟子入りして1年ほどで仕事がもらえるようになり、東京、大阪、静岡の色んなジャズクラブやライブなどで弾いてましたね。
当時は静岡から東京まで通い弟子をやっていたんですが、そんな生活を2年くらい続けたタイミングで、師匠から「東京に出ておいで」と誘われ、2000年に上京したんです。
編集部:では、東京に上京してからはプロとして本格的に活動していったわけですね。
中島さん:ただ、上京しても音楽だけでは食べていけなかったので、住み込みで新聞配達などもしてましたね。
その後、当時ADSLのブロードバンドが立ち上がったばかりだったので、PCのことは全くわかりませんでしたが、喋りがうまいということでそのサポートセンターの仕事を見つけ、そこで働きながら夜はライブ活動という生活を2001年から3年間くらい続けてました。
編集部:音楽の世界はプロでも厳しいんですね。

都内のジャズクラブで演奏していた時の一コマ
9.11後にグリーンカードに当選する
編集部:そこからアメリカに来たのはどういう経緯だったんですか?
中島さん:もともとジャズをやっていたのでアメリカには興味があったんです。でも、ジャズやブルースは現地の生活から生まれる音楽なので「お客さんとしてアメリカに行ってもしょうがない」と思っていたんです。
そのときに、たまたまテレビで抽選で永住権(グリーンカード)が当たるという話を知って、その何ヶ月後かにニューヨークで9.11の同時多発テロが起きたんですね。
なので、変な話ですが「そんな時に誰も応募しないんじゃないか」と思い応募したら偶然にも当たったというわけです。
編集部:たしかに、そのタイミングで応募する人は少なそうですよね。
中島さん:でも、その年が例年で一番応募者が多かったみたいですよ。
編集部:え、そうなんですか?とはいえ、かなりの倍率だったんじゃないですか?
中島さん:日本人というカテゴリで括れば200倍とか300倍とかじゃないですか?でも、当たったのも何かの縁だと思い、パスポートはおろか、海外に行ったこともないし英語も喋れなかったのですが、とりあえず来てみたという感じです。
編集部:ちなみに、英語も喋れないのにアメリカ移住することに家族や周りから反対はなかったんですか?
中島さん:当時はまだ25歳で若かったですし、それまでもやりたいことをやってきていたので、「こいつがやると言ったらやるんだろうな」という感じで誰も驚かなかったですね。
大学の時もジャズ研がなかったので自分でゼロから立ち上げて、最終的に100人くらいのインカレまで大きくして、結構大きなライブイベントとかもやってたりしていたので。
英語力・人脈ゼロからのアメリカ移住
編集部:英語もできなくて、人脈もない状態でアメリカにきて大変じゃなかったですか?
中島さん:アメリカに来た初日から洗礼を受けましたね(笑) グリーンカードで入国すると入国管理官が仮のスタンプを押すのですが、入国管理側のミスで本来8桁のはずの移民番号が7桁しかなかったんです。
それで、それを訂正してもらうために渡米したその日にサンノゼの移民局に行ったら「今日は遅いから明日来い」と言われ、翌朝5時に行ったら「ここじゃできないからサンフランシスコに行け」と言われ、サンフランシスコでは「明日来い」と言われ、その翌朝5時に並んで直してもらうという。
しかも、直してもらったと思ったら、今度はソーシャルセキュリティナンバー(SSN)の性別が女性で登録されていて(笑)
編集部:もう初っ端から散々ですね(笑) ちなみに仕事はどうしたんですか?
中島さん:最初は英語が喋れなさすぎて、日本食レストランの厨房の下働きすら受からなかったです。
編集部:表に出ないところですらも…
中島さん:厨房の中って大体メキシカンの人たちがやっているので、最低限の英語が喋れないとコミュニケーションが取れないからダメなんですよね。

編集部:それ、どうしたんですか?
中島さん:当時住んでいたアパートの大家さんがポットラックパーティ(持ち寄りパーティ)を開いてくれて、たまたま近くのお寿司屋さんのシェフが来てたんですね。
僕は料理が趣味なのでローストポークを作って持って行ったら、そのシェフが「料理できるんだね。うちで働く?」と言ってくれて、それで上手いことお寿司屋さんの下働きの仕事をゲットしたんです。
編集部:どこで何があるか分からないものですね。
中島さん:そうですね。とはいえ、時給7ドル50セントくらいだったんですけどね(笑)
編集部:それ最低賃金じゃないですか?
中島さん:たしか日本人だからということで最低賃金+50セントつけてあげるって言われた気がします。ただ、それでも月1000ドル(およそ10万円)も稼げないくらいでした。
そこは本当にフェアなレストランだったので、新入りは新入りということで、僕はメキシコ人の下について、死ぬほど野菜を刻んだり、皿を洗ったり、床を掃除したりしてましたね。
編集部:とにかくやれることはやったと。

当時働いていたお寿司屋さんでの一コマ
這い上がるために起業
中島さん:それと同時に色んなオーディションを受けて、演奏の仕事も同時にやってたんですが、レストランの仕事だけやってるとその後のキャリアについて考えるじゃないですか?
ここで10年頑張れば、10年後にはお寿司屋さんになれるかもしれないけど、自分はそのためにアメリカに来たんだっけと思ったり。
とはいえ英語も喋れないし、どうやったらこのアメリカ社会で浮き上がれるのかとずっと考えてたんです。そしたら、もうリスクを取って自分で起業するしかないなと。
編集部:それ以外に道がないと。
中島さん:そうです。当時、本当に英語ができなくて、求人広告すら読めないし、当然英文の履歴書なんて書けもしないので応募すらできなかったんです(笑)
だけど、状況がしんどいからといって愚痴ってもしょうがない。それなら自分でオープンリスクで起業にチャレンジしようと思い、野菜を刻んでいる時も起業アイデアをずっと考えていたんです。
編集部:どんなビジネスをやったんですか?
中島さん:初めは当時流行っていた個人輸入代行で卸をやろうと思ったのですが、元締の会社が直販で物を売れるようなECサイトを作った方が良いんじゃないかと思い至ったんです。
ちょうど日本のプロバイダー時代のプログラマーの同僚が独立していたので、「俺がアメリカの案件を取ってくるから一緒にやらないか」と話を持ちかけて一緒にやることになり、個人事業主を3-4人抱えて、ウェブサイトや社内システムを作ったりしましたね。
編集部:それはうまくいったんですか?
中島さん:いえ、2年くらい続けたんですが、値付けやマージンのこともよく分かっていなくて、そのあたりもさじ加減でやっていたので…(笑)
あと、当時は日本の中小企業からアメリカ法人を設立したいという需要が多かったので、その設立代行をする会社も作ったんです。
ただ、当時自分が26-27歳で、顧客の社長さんがかなりの年配で、自分にはその人たちと対峙するだけの体力も人間力もないということで、負けてしまって会社を畳みました。
そしてもうシリコンバレーにはいられないなと思い、荷物をまとめて機材を車に積み込んで、単身でラスベガスに行くことにしたんです。
志半ば単身ラスベガスへ
編集部:また、なぜラスベガスだったんですか?
中島さん:ラスベガスならホテルのカジノやクラブでライブの仕事がいっぱいあるんじゃないかと思い行ったんですが、行くのが15年遅かったみたいで全部DJに変わってましたね。
なので、Musicians Unionという組合に入り、ミュージシャンの電話番号や住所が載っている名簿をもらって「ベースの仕事はないか」と片っ端から電話したんですが、案の定まったく仕事がなくて。
ある日、あるピアニストから「話を聞いてあげるからおいで」と言われ、待ち合わせ場所に行ってみたら作業着を着た彼から「演奏の仕事は本当にないんだ。だから俺もこの倉庫で仕事してなんとか食えてるけど、今ベガスで一番トップのベーシストも昼間は不動産屋だぜ」と言われて…
編集部:それは衝撃の事実ですね…
中島さん:かなりショックでしたね。なので、コンベンションセンターやフェスに来ている日本人に(アメリカでは合法な)怪しい大人向けのDVDを売ったりしながら何とか生き延びました。
編集部:怪しいDVDですか…?
中島さん:パッケージを日本のアニメとかにリラップして、真空パックしてあげたやつとかね(笑)
編集部:あ、察しました(笑)

中島さん:その他には映像制作の仕事の手伝いで食いつないでいました。その時お世話になったのが大恩人の中井クニヒコさん(現在はホノルルにて射撃ツアー会社マークワンを経営)という方で、その人生観やエピソードが凄まじくて、ずっと自分のロールモデルでもある方なんです。
中井さんは僕が永住権に当選した2002年頃にインターネット上でアメリカ移住に関するコラムを書かれていて、当時はネットにそういった情報がなかったので貴重な情報源でしたし、すごく勇気付けられたんですよね。
なので、ラスベガスに移住後に感謝も込めて連絡してみたら、「遊びにおいで」と誘ってくれて、気付けば仕事も手伝わせてくれて生き延びることができたんです。
編集部:そういう意味では大恩人ですね!
中島さん:その他にも小さな演奏の仕事はいくつかあったんですが、ただ色々あって結果的に半年くらいでシリコンバレーに戻ってきました。

ベーシストとして様々なライブに出演
突然の解雇、研ぎ師という選択
編集部:なぜまたシリコンバレーに戻ってきたんですか?
中島さん:前の奥さんに「この生活がこれ以上続くんだったら離婚します」と言われたんですよね。
編集部:あ、奥さんはシリコンバレーにいたんですか?
中島さん:そうですね。彼女はちゃんとコツコツと働いて暮らしていたので、僕みたいにわけのわからない生活はしたくないとシリコンバレーに残っていたんです。なので、「じゃあシリコンバレーに戻ります」と。
編集部:でも、また仕事は振り出しに戻ったわけですよね?
中島さん:ただ、ずっとお世話になっていたサンフランシスコ州立大学の教授が、表情分析による心理学を元にした大学発のスタートアップを立ち上げていて、そのアシスタントとして僕に声をかけてくれたんです。
その教授はポール・エクマンという有名な心理学者の一番弟子にあたる方なんですが、ポール・エクマンがモデルとなった『Lie to Me』がFOXでドラマ化されて、その中では僕がPhotoshopで加工した色んな顔の表情のマテリアルが使われたりもしたんですよね。

2009年から2011年にFOXでテレビ放映された『Lie to Me』
編集部:少しずつ流れに乗ってきましたね!
中島さん:「こういう風に使われるんだな」という感じで、そこでは1年半ほど働いたのですが…
編集部:ですが…?
中島さん:僕も若かったので慢心してしまい、横柄な口の利き方を社内でしていたんだと思います。ある日、同僚の女性と口論になり、女性曰く僕がひどい言葉を言った、と。それが問題になってしまい解雇されました。。。
編集部:え、解雇ですか!?
中島さん:問題が起きて1週間くらい経ったある日、いつも通り会社に行ったら、顧問弁護士とマネージャーが全員いて、解雇通知を渡され、Release Agreementを読まされ、サインをする事になりました。。。やっとまともな仕事に就けたと思っていただけに、突如(実質)クビになってしまいすごくショックでしたね。

編集部:なんだかドラマみたいな展開になってきましたね。クビになった後はどうされたんですか?
中島さん:そこからは刃物を研いで暮らしてました。
編集部:え、研ぎ師ですか??
中島さん:別に研ぎ師になろうと思ったわけではないんですが、普通だったら就職活動して次の仕事に就けばいいのに、世の中の何もかもが嫌になってしまい、就職活動する気さえ起きなかったんです。
そんなときに刊行誌で刃物屋さんの求人を見つけて、それが当時住んでいた家の近くだったこともあり働くことにしたんです。ただ、時給8ドルくらいだったので、年間所得2万ドル(およそ200万円)もなかったと思います。
編集部:それ、家計は大丈夫だったんですか?
中島さん:当時の奥さんは自分が何をやっていようがずっとコツコツと働いてくれていたので、家計はなんとかなってましたね。
仕事・家族・家…全てを失う
中島さん:それが今から10年前なんですが、それだと当然ダメですよね。結婚から10年ほど経っていたのですが、当時の奥さんから「別れます」と言われ、そのタイミングで仕事も辞めなくてはならなくなり、仕事も家族も家も失ったんです。
編集部:もう本当にゼロになってしまったと。
中島さん:「やばいな。家もないしどうしよう…」と思っていたんですが、惨めな状況の時って恥ずかしくて誰にも頼れないんですよね。
ただ、一人だけ大学発のスタートアップで一緒に働いてた同僚に相談したら、「部屋には泊められないけどガレージならいいよ」とのことで、他に選択肢もなかったので、ガレージにマットレスだけ置いて、そこで寝てました。
縦長のガレージだったから、一番奥にマットレスを置いて、そこに車がウィーンってバックしてくる感じで。しかも、2010年1月の年明けそうそうにね。
編集部:これまた寒い時期に…
中島さん:そして、彼から「僕らもこの家を引き払うことにしたから、あと2週間後には出ていって」と言われ、それまでに仕事と住むところを見つけないと本当にホームレスになってしまうと思い、アメリカに来てからの6年間で初めて死ぬ気で就職活動しましたね。

編集部:背水の陣だったわけですね。
中島さん:そのとき、生まれて初めて恐怖で膝が震えて立てなくなりました。そうなったのは一生であの時だけだと思います。
日本にいる親や親友に事情を説明したんですが、「そんな負け犬の状態で日本に帰って来ても、負けが膨らむだけだから這い上がるまで帰って来るな」と言われ、厳しいなぁと思いました。「帰っておいで」とか「お金送ろうか?」みたいなことを多少は期待していたので。
編集部:頼みの綱だと思っていた親や親友にも突き放されたわけですね。
中島さん:本当にお金もなくて、貯金もあと100ドル、200ドルくらいしかなかったんです。なので就職活動も本当に必死でしたね。新卒レベルの仕事に片っ端から30~40社応募して、かつ日系の人材派遣会社全てに登録して、たくさん紹介してもらったのですが1個も決まらなくて。
編集部:え、1つも引っかからなかったんですか?
中島さん:たぶん目が死んでいたんだと思います。あと、あまりにも状況が悪すぎて自己嫌悪が酷すぎたんですよね。だから面接に行っても「僕はもう本当ダメ人間なんですけど、もしチャンスがもらえたら本当に頑張ります」とか言っていたので。
編集部:たしかに、企業としてもそんな人取りたくないですよね(笑)
中島さん:しかも、お金がないから着てる服もひどかったですし、それに髪を切るお金もなかったので髪もボサボサだったんです。本当に当時の自分には良いところがなかったですね。僕だってそんな人きたら雇わないと思います。
やっと見つけた突破口 / 漆黒の黒
編集部:それはどうやって切り抜けたんですか?
中島さん:もう本当にやばいと思っていた時に、ネットに聞いたこともないような小さな日系旅行会社の求人広告が英語で出ていたんですよ。英語だからもしかしたらいけるかもと思い応募したら、案の定面接が決まったんです。
でも、社長本人から「明日その辺りでゴルフしてるから、その近所のスタバで会いましょう」って電話が来て、今だったら怪しいからそんな面接には行かないんですが、それで会ってみたら「もう後がないんだね。死ぬ気で働く?」と言われそこで仕事が決まりました。
編集部:見るからに怪しさがすごいですね。その会社は大丈夫だったんですか?
中島さん:死ぬほどブラックでした(笑)
編集部:やはりそうだったんですね(笑)
中島さん:24hours 7days仕事でしたね。それに営業だったんです。それまでは音楽と仕事を両立したかったので、自分の時間が取りにくくなる営業だけは避けていたのですが、四の五の言っていられなかったので。
編集部:それくらい後がなかったと。
中島さん:しかも、僕の営業エリアがシアトル、サンノゼ、ロサンゼルスの3拠点だったんです。そしてお客さんには、自分がそれぞれの地域に住んでいることにして、自分がいないところから呼び出しが来たら、「飛行機で次の日飛べ」と言われてましたね。
なので、携帯電話を3つ持って、その3拠点を飛び回る生活でした。しかも、その日の新規顧客開拓数によって泊まるホテルが決められたので、例えば、朝シアトルに着いて、夕方に結果報告したら「じゃあ今日は安いモーテルに泊まれ!」みたいなこともありましたね。

編集部:その日暮らし感がすごいですね。それは精神的、体力的に大丈夫だったんですか?
中島さん:きつくて、鬱になりかけちゃったから一時期カウンセリングに通っていた時期もありましたね。新規開拓で走り回ったシアトルはいまだにトラウマです。
あと、パワハラが激しい社長に対抗するために、夜中の3時に社長に「緊急の相談っす!」という電話をかけて起こすという嫌がらせをやった事もありました。まあ、病んでますよね(笑)
編集部:それほど追い込まれていたんですね。
中島さん:カウンセリングでは、案の定「それはもう完全にやばいです」と言われたんですが、それでもその状態で半年くらい過ごしました。さすがに良くないとは思いつつも、やっと見つかった仕事を逃げ出す形で辞めるのが嫌だったんですよ。
だから、ちゃんとやった上でもっと良い条件の仕事が見つかったら、気持ちよく出ようと思い頑張ったんです。
食品卸売企業へ / COOの頭角を現す
編集部:その後、新しい会社は見つかったんですか?
中島さん:ある時、日本食の卸の会社で事務職募集という広告を見つけて、さすがに大きい会社だし大丈夫だろうと面接を受けにいったら、旅行会社で揉まれながら営業しまくっていたおかげか即採用でした。
編集部:もうネガティブなオーラは消えていたわけですね。
中島さん:でも、事務職だったので仕事内容はデータを打ち込んだり、書類を番号順に並び替えたり、棚の整理をしたりという雑用だったんです。
ただ、だからといって「つまらない仕事だ」とは言わずに、その状況の中で「自分は何ができるか」をすごく考えるようにしてましたね。
だから、当時32、33歳でその会社のサンフランシスコ支店で社員75人中75番目という下っ端からのスタートだったんですが、とにかく周りが嫌がることを率先して引き受けてました。
編集部:みんなが嫌がることですか?
中島さん:それはみんなが嫌だ、無理だという環境にこそ勝機があるからです。だって、そもそも愚痴や文句はマイナスから始まっているから、その理由や原因って明白なんですよ。そこを改善してゼロにするって面倒なことではあるけど、そんなに大変なことではなかったんです。
そういうのを率先してやっていくうちに、皆喜んでくれるし、自分も色々な物事が見え始めてきて、段々と昇格していったんです。
編集部:そこで自分のバリューを発揮していったわけですね。
中島さん:そして、ちょうど会社がERP導入で社内システムを全部変えなくてはいけなかったので、ボトルネックだと思っていたものを全部直していたらマネージャーに昇進して、気付くと僕を採用してくれた人とも立場が入れ替わってたんです。
部下も50人くらいついて、最終的には倉庫管理とオフィスのオペレーション全てが僕の管轄になってましたね。
編集部:すごい大逆転劇ですね。
中島さん:その時は産業用コンプレッサーやパレットジャックも操作出来るようになってましたし、州のオゾン環境基準や消防法、輸入、通関、食品検査とかも余裕でクリアできるレベルになってました。
通常業務以外にも、床・壁の張り替え、セキュリティ用フェンスや野外ベンチの設置、あとは家庭菜園とかまでやってた気がします。

食品卸時代に愛してやまなかったコンプレッサー
編集部:COOとしての頭角が現れ始めましたね!
中島さん:とは言え、国も言語も考え方も違う集団をまとめるのはかなり大変で、特に倉庫の朝は早くて、朝6時に出社してドライバーが全員揃っているかを確認。一人でも欠けていれば、すぐに臨時のドライバーを手配するという慢性的な人手不足に悩まされてましたね。
ドライバー以外の仕事も人員がギリギリだったので、一人でも欠ければ臨時スタッフの手配が必須で、でも当日の手配で見つかるなんて稀で。あとは臨時のドライバーが道に迷って配送出来ずに夜中に帰ってくるなんてこともザラでしたね。
ただ、ストレスで胃潰瘍になったり、頑張っていたドライバーが事故を起こして急遽解雇せざるを得なくなったりというのは辛かったですね。一番好きで楽しかったのは80,000 Sq Ftの倉庫での$6M USD(およそ6億円)分の棚卸しでした(笑)
編集部:本当になんでもやってたんですね。
中島さん:従業員のみんなとも信頼関係を築きながら頑張っていたので、もともと離職率が高い職場だったのに誰も辞めなくなりましたし、すごくやりがいはありましたね。

仕事の傍ら勿論現役でライブ活動も(右上に中島さん)
Fujisoft Americaとの出会い
編集部:そんな中、Fujisoft Americaに転職したのはどういう経緯だったんですか?
中島さん:ちょうど富士ソフトがアメリカに子会社を法人登記して、アメリカでオペレーションが回せる人を探していたんです。前職の食品卸の同僚が人材紹介会社に転職していて、その情報を入手して紹介してくれたんですよ。そして、当時のFujisoft AmericaのCEOと会うことができ、採用されたという感じです。
編集部:50人も部下がいて、キャリアとしても安定してきている中で、また立ち上げをやろうと思った決め手は何だったんですか?
中島さん:やっぱり立ち上げが好きなんですよね。あと、やはりシリコンバレーなのでIT産業にいきたいという想いもありました。

Fujisoft AmericaのHP
倉庫の運営もオフィスのオペレーションもものすごくやりがいはあったんですが、最後の方は僕が行かなくても回る状態でしたし、そこで身に付けたビジネスのスキルや物の見方はどの業界でも通用するんじゃないかという仮説も持っていたので。
編集部:新たな立ち上げを通して、自分の仮説を試してみたかったと。
中島さん:加えて、ITだけのエンジニアさんだったら、お客さんの倉庫の話は全くわからないと思うのですが、僕は実際に現場でがっつり働いていたので、物流のお客さんが何に対して本質的な課題を持っているのか分かるんですよね。
それは物流だけに限らず、旅行会社、スタートアップ、研ぎ師、お寿司屋さん全てに当てはまるんです。だから、周りからは繋がってないように見えても、僕の中では全部が繋がっていて、過去の経験全てが活きているんです。
編集部:そのユニークさが中島さんの強みでもありますよね。
中島さん:僕は普通の人より世の中に出たのが10年くらい遅かったのですが、この10年間の経験を活かすも殺すも自分次第だと思ってます。だからこそ、あのとき感じたことや経験したことが、今あるビジネスにうまく昇華できているのかなと思いますね。
アメリカ移住での学び / 現実が正解
編集部:この10年を振り返ってみて、何が一番大事だったと思いますか?
中島さん:仕事は大事。「人生をサバイブする」ということを因数分解すると、やはり「稼ぐこと」なんですよ。稼ぐというのは自分の働きに対する世の中からの対価なんです。だからまずは世の中に認められて対価をもらえるようにならないとダメですよね。

編集部:ちなみに、本当にどん底を見てきて、世の中に対する僻みや妬みはなかったんですか?
中島さん:ありましたね。特に家族を失ったときは、楽しそうに暮らしてる家族を街中で見るのが本当に辛かったです。「なんで俺ばっかりこんな辛い思いをしなきゃいけないんだ」と思ってました。だから、ものすごい妬みや僻みをずっと抱えていたんです。
だけど、全部を失って我に返った時に、「そうやって妬んでばかりで、目の前にいる人たちの価値を認めてこなかったから、自分はここにいるんじゃないか?」と初めて思えたんです。
編集部:本当に追い込まれて初めて自分を客観視できたと。
中島さん:昔は自分のことを特別だと思っていて、コツコツやるなんて自分には合わないと思っていたんです。だから、常に近道を探したり、一段飛ばしを試みたり、ある日突然人生変わるんじゃないかと現実逃避的なところもありました。
でも、僕が好きな談志師匠の言葉にもあるように「現実が正解」なんです。「俺はこんなはずじゃない」と思ってもダメで、今ある現実が全てなんです。それに嫉妬は、自分よりも優れた人を自分の位置まで引きづり降ろす行為だから、誰もハッピーにならないんですよ。
編集部:妬まず現実を受け入れるということですね。
中島さん:だから、脳にある嫉妬という回路を切って、妬んだり愚痴を言うのをやめたんです。そして、昔の自分が一番嫌いだった「階段を一歩ずつ登る」ということを始めたんです。すると、突然ではないですが少しずつ物事が好転していったんですよね。
編集部:それが今の仕事にも繋がっていると。
中島さん:だから、特に移民で来ている人たちや、這い上がりたいと思って頑張っている人たちに最初のきっかけを与えたいなぁ、という思いは強く持っています。アメリカだと職歴がないと何も始まらないですし、最初から良い条件のところにはいけないので。
ここで頑張って次に良いところがあれば良かったねと送り出してあげる。自分がその「仕事」という部分で苦労してきたからこそ、関わって縁がある人には仕事を与えていきたいですし、できることはしていきたいと思っています。
今後のキャリア観 / サバイバルの次へ
編集部:今後のキャリア観などありますか?
中島さん:今までは「サバイバル」をキーワードにやってきたのですが、そのフェーズは一旦終えたいですね。生き延びるのってすごく大事な能力ではあるんですが、それだけだと自分本位なマインドセットなので、スケールしにくいんです。
なので、今はどうすればお客様やパートナー様たちと一緒に成功していけるのか、明るい未来を描けるのか、また、それを通して社員がハッピーになれるのかというところに想いを馳せています。

編集部:たしかに、それはサバイブの次のフェーズですよね。
中島さん:そのためにも、ミッションやビジョン、さらには自分たちのバリューをきっちりチームに共有・浸透することが結果としてチームとお客様の成功に繋がると思っているので、今はそのフェーズを目指しているところです。
これは僕にとっては物凄いチャレンジなんです。今でも目をつぶると、あのガレージが思い浮かびますし、あの時の恐怖が蘇ってくるので。でも、今は価値を認めてくれて応援して下さるお客様もいるので、そういった方々にも恩返しをできればと考えています。
メッセージ / チャンスを逃すな
編集部:では最後に海外で挑戦したいと思う人にメッセージをいただけますか?
中島さん:年代によって違うと思いますが、20代だったら「目の前にあるチャンスを逃すな」ですね。実はチャンスは目の前にいっぱいあると思うんですが、本人がそれに気付かないとそのまま終わってしまうんです。
例えば、すごくしんどくて、なぜ今こんな状況なんだと思う人もいるかもしれませんが、しんどいんだったらどうやって変われば良いのかを考えるきっかけがそこにはあり、それに対してアクションを起こすチャンスがありますよね。
編集部:たしかに、そういう意味ではチャンスは平等にあるのかもしれないですね。
中島さん:結局、誰も与えてくれないとか、周りと比べてなんで自分だけと思っている人は、飼い犬と根性が一緒なんですよ。あそこの飼い主の方が良い餌をくれるとか、あそこの方が犬小屋が大きいと言っているペットと同じだと思うんです。
でも、人は人間である以前に動物だと思うので、自分で食べて生きていくという本能的な力を身に付けた方が良いと思うんです。機会やチャンスはまさにその餌だと思うので、それを自分で取りに行く感覚を磨くと良いと思います。
編集部:思考を変えて、自分の行動を変えていくと。
中島さん:だから、目の前にあるチャンスを見逃すなと。必ずどこかに勝機があるんだと思っていれば何か見えてくるし、どうせないと思っていたら何も見えないんです。
ただ、その目の前に均等に与えられた条件の中から、可能性を見い出せるかどうかは教養や知性も重要になってくると思うので、勉強は大事ですね。
メッセージ / 勉強は大事
編集部:勉強というのは学校の勉強ですか?
中島さん:学校の勉強はすごく大事だと思います。色んな国の人たちが、その国の歴史の上に立って生きているわけなので、どのように世の中が動いているかを知るためにも、最低限の世界史や宗教に関する知識は大事だと思います。
あと、当然ですがアメリカで生きていくなら英語は死ぬ気でやった方がいいと思います。僕自身、英語ができないと死ぬと思ったので、1日5時間×3ヶ月くらいかけてケンブリッジの「Grammer in Use」という分厚い本を7回転したら英語に困らなくなりました。
編集部:1日5時間って難しくないですか?
中島さん:たしかに社会人の方には難しいかもしれないですが、1日5時間くらいすると脳の中に英語の回路ができてくるので良いと思います。
当時は起業したタイミングだったんですが、会社もあまりうまくいってなくて暇だったのと、「英語ができないと死ぬ」という状態だったので、ずっとカフェで勉強してました。
編集部:それくらい追い込まれて、死ぬ気でやると人は変われるということですね。
中島さん:だから学生さんは狂ってるんじゃないの?というくらい勉強した方がいいと思います。そしてそれと同時に、臆病にならないで大胆に行動できる勇気があるといいですね。
教養がある上での大胆さと、それがない独りよがりな大胆さって全然違うと思うので。というのも、誰しも一人で生きているわけではないので、何事も相手を慮(おもんばか)れないとうまくいかないですよね。
編集部:たしかに、教養と大胆さが合わさったらどこでも成功できそうですね。
中島さん:僕はアメリカに来て死にかけたから腹が決まって頑張ったわけですが、日本にいたら逃げ道がいっぱいあったし頑張らなかったのではないかなと思うんです。何もしなくても生きていけるし、家族や親戚もいるから多分死なないし。
結果的に自分の経験を通して、どんな状況でも、自分で終わりだと決めつけて可能性を閉ざさない限り、道は開けるんじゃないかと思います。僕みたいなやつでも何とかなったんだから、若い人たちも諦めなければ何とかなるんだよ、ということを今後も伝えていきたいですね。
編集部:何事も諦めずに、可能性を信じて生きていくことが重要だということですね。中島さん、今日は大変ユニークなお話をありがとうございました。

おわりに
本日はFujisoft AmericaでCOO兼CFOをされている中島さんにインタビューしました。
英語力・人脈ゼロからアメリカに移住し、寿司屋の下働き、起業、解雇、ブラック企業など、様々な逆境を「サバイブ」してきた中島さんのお話からは、些細なチャンスに目を向けて、諦めずに挑戦し続けることの重要性を教わりました。
僕もアメリカで這い上がって、お世話になった方々に恩返しができるよう精進していきます!
今後の取り組みについては、FacebookページやTwitterでも随時最新ニュースを更新していく予定です。もし興味がある方はこちらもいいねやフォローをしていただけますと幸いです。
メルマガ「SiliconValleyWorkers通信」も始めました。週1回から月1回の頻度で新着情報や求人情報、編集部の気になるトピックなどを発信する予定ですので、興味のある方はぜひ登録してみてください。